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執筆者の写真柴田 玲子

経験

更新日:2022年10月9日


どんなに有能な人たちが頑張っても、人間はつくれない。当然動物たちもです。

コピーなら作れるのだろうけれども、細胞の神秘は計り知れないもの。。神のみぞ知る神業なのです。

わたしは双子の母ですが、一卵性双生児の双子も、まったく同じではないし、性格も顔だちも違う、他人が見たら見分けがつかないと言うけど、生まれた時から個性を持って、たった一人の存在です。一つの細胞が成長の段階で二つに...にもかかわらず、同じではない。顔だちも似てはいるけど違う、性格も、好みも、大人になればなるほど、違ってくる。ひとりひとりに宿るひとつの魂があるので当然のことです。


わたしは医療の専門家でもないし、研究者でもないから専門的な観点からのことは語れない。でも、人間の持つ元々の感性の部分で感じたり考えたりすることは、環境だったり生きている時間だったりが経験を通して変化していく。たくさんの出来事や体験から、知恵がついていって、自分の中で成長していく先は、物事を深く掘り下げて、物事の真実や真理を捉えることができる叡智へと姿を変えていく。


今だからこその言葉や行動につながることは年齢を重ねることの充実感につながっていて、年齢を重ねることは、中々おしゃれ~♡って思う。

肉体は若い時のようにはいかないこともあるけど、こころは、完全とは言わないけど、今のほうが断然扱いやすくなっている。


よく、心と体は繋がっているとか、体の声を聴くとか言いますが、簡単にはいきません。何故か?

「感じる力」が必要だからです。

五感で感じる、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。

第六感の、直感、そのまた上級のテレパシーになると、現代のわたしたちにとって、その感覚の自覚はかなり落ちぶれてしまっているようです。


本来、わたしたちはその力を自然界の恵みの中から受け取る情報に、真実があったりするのだろに、自然な状態からは故意に遠ざけられてきている現代人のわたしたちには感じる力や考える思考は衰えていくばかりのような感じがしてならない。


生活環境一つとっても利便性ばかりが追い求められていて、健やかとか、本当の意味での豊かさとかは無視されているように思います。


例えば、火が家の中から消えているのもその一つです。ガス台にやかんをかけて、「カチカチカチ」と音がして火がつく。お湯が沸くのは当然だけれども、なんとなく火が暖かさを感じさせてくれます。

朝一で火を灯すのは、私たちの一日の始まりに火をともす。

火はエネルギー、エネルギーは活動の源。神社などで行う護摩祈禱も火を焚くことを思えば

火には浄化作用があることもわかります。


だから、朝一、火を家の中で灯すことは、よどんだ氣の浄化と、いい氣をつけて、災難を逃れる。。そんな意味もあるのではないでしょうか。


なのに…IHって…がっかりなんですけどね、個人的には。。

けど、住む環境で難しいこともあるので、そこは、工夫次第で、マッチで火をともすとか、ガスコンロとか、できることで抗います(笑)


こと、体に関しては、感じてはいけないことのほうが重要なことがあります。


例えば、「胃袋」に関してで言えば、食べたときにわたしたちは一々今胃の中に入る食べ物を感じない。食べた後満腹を感じることはあっても、時間とともに落ち着いてくると、胃袋の存在は残っていない。健康な状態であれば内臓は感じないものなですね。


けど、風邪をひいたりして体調がいまいちだと、食べたものがいつまでも胃袋のあたりに残っている感じがして、そんな時は自分の中の胃袋を感じます。「胃袋がここにある」を感じてしまう。

なので、健康な時は体に中にあるものは存在しているけど、感じないのが当たり前のことになるんだなぁ~てふと思ったら、私たちの体って、なんだかんだ、勝手に判断して、勝手に機能していて、「今お肉を食べたから、たくさん消化しよう」とか、考えなくても、体がかってにうごいてくれているんだなぁって、改めて感じることができたら、やっぱり、私たちを造った神様って偉大だなとつくづく感動します。


勝手に働いてくれる自分のこの体に感謝せずにはいられなくなります。

私の体、頑張ってんだなって思って(*^^*)

若いころにはこんな感覚は、無かったですからねぇ。


今カラスが泣いているのだけれど、そんなことも、今は、嫌な感じがしないのは、「自然なこと」に、下手な干渉を入れなくなった、これも、年の(笑)、カラスが嫌な生き物のように感じなくなっているのも、いつからだっけ?

話がそれた(笑)


体の声をきくっていうのは、ニュートラルの状態を知らないと体からの声は聞けないということです。

いつもどこかが痛い、薬で誤魔化すみたいな繰り返しでは、体を大事に扱うことを忘れている。痛いのが当たり前でいつものことってなっていれば、どうなるか?いずれ、からだは、信号無視の結果として事故を起こす、つまりは病気になるってことになります。


未然に防ぐの心がけは、何処へ。。

病気にならないためのことには意識があまい現代の日本人。薬に頼って、根本の原因を見ることをしない、自分のことなのに、他人にまかせようとする傾向が強いように感じていいます。生活を見直そうとしないのは、自分の経験を無駄にしているようなものです。

心が迷子になっているのです。

先の心配ばかりして、保険とか老後とかまだ想像の世界にお金をかけすぎなのですよ。


食に関しても、日本は添加物大国です。食は危険なものまみれで、安心安全はもうとっくに崩壊している。

それさえも、知らずに勘違いをしてテレビからの誘導を疑わない。

食生活は、生まれたての赤ちゃんのときから、メディアの情報のコントロールによって、既に侵されているのではないでしょうか。


経験を積んでいる大人たちはなにを見ているのかどこに行こうとしているのでしょうか?

垂れ流しの情報発信を信じてはいけない事はもうわからないといけない。

もはや、情報は自分で取りに行く時代なのです。情報を取りにいかない人は、世の中のまやかしに翻弄された、奴隷になっていく...そんなの、わたしは絶対に嫌です!


新生活様式?が、定着してきていることは、街にでれば一目瞭然です。顔が見えません。見えないもには不安を感じるのが人間、特に日本人。

顔を隠すのは、顔色をよむ感覚はもう使うことができません。人への気遣いもできなくなるし、益々人間不信。

わたしは基本的にマスクはしませんの意思表示のもとで、生活をしています。完全でないのは、スーパーマーケットのベタベタと張り付けている「着用」の張り紙にめんどくさいことに巻き込まれないようにと、トラブル回避の理由だけでする時がある程度です。最近は人々が攻撃的に変身しているようにも感じることがあります。


基本、心をが嫌がることを続けていると、体調不良に陥ります。ストレスはわたしたちの体をどんどんむしばんで、病気を作ります。


体と心は繋がっています。


せっかくなら、生きてきた時間で経験したことは生かして生きていきたい。

間違いも経験の一つなら、そこから学びを見つけないと、経験の意味がないんじゃない?っていつも自分に言ってる。


歴史は繰り返されるといいます。歴史から学ぶことも必要だ(正しい歴史からです)


今の世界って、なんか、変ですねよ~













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